日本人は、先祖供養や祈願のための神社仏閣参りは熱心ですが、
『神』『靈』『宗教』『スピリチュアル』などの言葉には、
拒否反応を示してしまうようです。
今まで真実を知らされず、眠らされていたので仕方ないことですが・・・。
まず、私たちの本質は『神の分け御魂』であり『靈体』であるという事を、
知ることから始まり、この真実がとても重要になります。
肉体が全てではないため、灰になっても存在が消えて無くなることはありません。
この事実さえも知らされておらず、我々を長い間『無知』の状態にしておくために、
学校教育があると言っても過言ではないでしょう。
あなたは、
何か信仰していますか?
いえ、私は無宗教です。
実に日本人の約7200万人の人々が無宗教・無神論者で、
中国の次に多いという結果が
出ています。
無宗教、無神論という言葉美化いたし、己の思い込みに酔うておりますのじゃ。
宗教、悪ではないぞ。じゃが、善でもないぞ。個々の捉え方一つで
ありますのぞ。
『神』『靈』について真実を知ることは、真の自分を知ることに繋がります。
また、我々には『選択の自由』があるのと同じく、『信仰の自由』もあります。
ここで大切なことは、今の世は『だましの世』であり『嘘の世』であるため、
あらゆることの見極めがとても重要と言えるでしょう。
日本にはいろいろな宗派の宗教が存在しますが、
多くは教祖亡き後、歪められ真実を伝えていないと神示※では語っています。
※きちんとした審神者(さにわ)であり、真のシャーマンである「神人さん」に降ろされた『神示』
- 真の神々はお金や物を要求しない
- 利益の交換条件として何かを要求するのは靈性低き御霊の類
- お釈迦様は今の仏教に、「真の教えがすり替えられた」と嘆いている
- お墓は必要ない
- 開祖先亡き後の団体は腐敗する
歪められた教え
何を拝んでおるのじゃ?
何を拝んでおるのじゃ。神様とは何じゃ。仏様とは何じゃ。何ゆえ拝んでおるのじゃ。
己、僕にされて何願っておるのじゃ。金払わされてご利益あるのか。
何も分からんで拝んでおるのか。先祖とは何じゃ。足元におるぞ。
分らん者分らんで拝んでおること、まだ可笑しいと氣づかぬか。
拝まねば祀らねば祟られると申す教え、悪魔の奴隷の戒律ぞ。
大日月地神示
仏教には、いくつか流派がありますが、二大流派が『大乗仏教』と『上座部仏教』
- 『大乗仏教』・・・
出家・修行せずとも誰でも救われる - 『上座部仏教』・・・
出家・修行しなければ救われない
- 性交
- 禁酒
- 嘘
- 殺生
など227条の戒律が設けられています。
仏教には、いくつか流派がありますが、
二大流派が『大乗仏教』と『上座部仏教』
- 『大乗仏教』・・・出家・修行せずとも誰でも救われる
- 『上座部仏教』・・・出家・修行しなければ救われない
- 性交
- 禁酒
- 嘘
- 殺生
など227条の戒律が設けられています。
殺生とは、「生き物を殺していけない」
「食してはいけない」 「魚・肉禁止」僧侶も神父も死肉食ろうて笑うておるであろうに。
死肉食うは、古(いにしえ)の世において悪魔らの教えであったのじゃぞ。
生贄とは悪魔らへの貢ぎ物じゃ。生贄の儀、
世にはびこておった歴史あること知らねばならんぞ。
日本の寺の料理は、『精進料理』というイメージがありますが、
1872(明治5)年、明治政府が「肉食妻帯勝手たるべし」という法令を出しました。
僧侶は、肉食も結婚も自由にしてよいというもので、それは現在に至るようです。
タイは『上座部仏教』ですが、朝、町のあちらこちらで『托鉢』の光景を目にします。
日本の仏教は、『大乗仏教』ですが、いまや『葬式仏教』と化しているのではないでしょうか?
「お布施」・「永代使用料」・「塔婆料」・「寄付」・「戒名」の他、法要の際には、「御車代」「御膳料」等も、含まなければなりません。
タイは『上座部仏教』ですが、
朝、町のあちらこちらで『托鉢』の光景を目にします。
日本の仏教は、『大乗仏教』ですが、
いまや『葬式仏教』と化しているのではないでしょうか?
「お布施」・「永代使用料」・「塔婆料」・「寄付」・「戒名」
法要の際には、「御車代」「御膳料」等も
含まなければなりません。
本来『お布施』とは、教えを乞うた者が、
その教えに対して有難みを感じ自主的に行うものであり、
けっして強要するものではありません。
「喜捨」することで救われるということのようですが、
貧しい人や困っている人に「喜捨」するのなら、それも当てはまると思います。
何に対してもお金が発生する日本の仏教は、利益が生じる一般の商売と同じであり、
お釈迦様の真意とはかけ離れているものではないでしょうか?
良いか、真の神々様も善なる霊団霊人様方も、金や物、ましてや人や獣らの命など、
ひとつも要求はせんのでありますぞ。
交換条件なくとも、誰彼分らんでも、
人々の真喜びのためお働きなさるが真善なるものでありますのぞ。
ご利益の交換条件として、人民に何かを要求するのは、
悪魔であり魔の僕となりた霊団霊人らの、
靈性低き御霊の類でありまのぞ。
お釈迦様も嘆いている
仏魔に支配された僧らに貢ぎ、金で極楽買う者らで満ちておりますぞ。恥ずかしき話じゃ。
お釈迦様も嘆いておりますわい。真の教えがすり替えられたと申して
おりますぞ。
仏の道、解脱の道ではないぞ。他のために己生かし切る道ぞ。
真貫く清き喜びの道ぞ。他一切を尊ぶ生き方でありますぞ。
派手な袈裟下げ、装飾品に包まれ、心無い歌唄って金貰うでないぞ。
大日月地神示
お釈迦様は、自分の教えを文字として残しておらず、すべて『口伝』によるもの。
お釈迦様入滅後、紀元前1世紀頃、釈迦の教えは弟子たちにより文字となり、さらに注釈を加えて記録され、経典となりました。
弟子によって解釈に微妙な違いがあると考えられますので、補足を加えながら作成された経典には、お釈迦様の真意が100%正確に伝わっているかどうかは不明でしょう。
お釈迦様は、自分の教えを文字として残しておらず、
すべて『口伝』によるもの。
お釈迦様入滅後、紀元前1世紀頃、
釈迦の教えは弟子たちにより文字となり、
さらに注釈を加えて記録され、経典となりました。
弟子によって解釈に微妙な違いがあると考えられますので、
補足を加えながら作成された経典には、
お釈迦様の真意が100%正確に伝わっているか
どうかは不明でしょう。
- 釈迦が書き記したものは実際のところ何も存在しない。
経典は後世の者たちが想像して書いたものに過ぎないのである。 - 釈迦の教えを守っている僧侶は残念ながら殆どいない。
僧侶は偉いわけでもなく見掛けや肩書きのみで経を唱え、
真の釈迦の教えを理解致して生きている人は非常に少ない。
神人靈媒日記
『心無い歌』とはお経を読むことであり、
『意が乗っていないただの言葉』であると言っています。
葬儀にて経を唱えられても故人の殆どは喜んでいない。
靈人ら曰く全く心に響いてこないそうである。
神人靈媒日記
仏事に出席した際、時々寝ているのではないかと思うような僧侶や、
もにょもにょと何を言っているのかわからず、心に響いてこなかった読経もありました。
儀式や儀礼にこだわらず、
出会えたことに対しそれぞれが感謝を伝えることが一番良いのではないでしょうか?
我々は『神の分け御魂』であり、『靈人』
肉体はお借りしているものなので、灰になっても『御魂』として存在し続け、
靈的進化のためにまた転生します。
お墓には遺骨があるだけで死者の魂は眠って居らず、墓に住んでいる訳でも
ありません。
御魂がわざわざお墓まで来てくれているような状態です。
仏壇や位牌の中にも魂は宿っているわけではなく、
瞬間で時空間移動出来るエネルギー体として自由自在の広い世界に存在しているのです。
墓参りや仏壇・位牌にこだわるのは、
間違った儀式儀礼と作り話に囚われている仏教的思想の靈団のみです。
神人靈媒日記
宇宙は『愛と調和』で循環しており、地球は『自愛と他愛』『和ます』ことを学ぶ場。
【他一切を尊ぶ生き方】は、僧侶だけに課せられた学びではなく、我々にもあてはまります。
菩薩は広く一切の功徳をし、衆生に賜る善行ばかり考えています。
他人を犯さないし、自分を捧げて、万物を捨てて他人を救済します。
「法滅尽経」より
仏教界にいる僧侶は、今も昔もお釈迦様の弟子であり、本来なら我々にお手本を示す立場であるべきでしょう。
特に今の世は、『末法の世』に近い状態で、救われない人々がたくさんいます。
いまこそ、お釈迦様の真意を世に広め、助けを求めている人々にたいして、救いの手を差し伸べることが、本当の修行ではないでしょうか?
仏教界にいる僧侶は、
今も昔もお釈迦様の弟子であり、
本来なら我々にお手本を示す立場
であるべきでしょう。
特に今の世は、『末法の世』に近い状態で、
救われない人々がたくさんいます。
いまこそ、お釈迦様の真意を世に広め、
助けを求めている人々にたいして
救いの手を差し伸べることが、
本当の修行ではないでしょうか?
お釈迦様だけではなく、イエス・キリストもマホメットも皆々、
嘆いておられるかもしれません。
偶像崇拝に意味はない
靈人も人民も、偶像拝むでないぞ。神殿や祭壇もいらんのでありますそ。
おのおのの心に設けなされよ。真分かりておらんと、心の中に神映し
出来んのぞ。
建物、祭壇、偶像に金かけるでないぞ。
大日月地神示
【お墓は必要でない理由】
- 故人は墓にいない
- 墓に行かなければ故人に会えない訳ではない
- 靈は瞬間移動出来るため何処にでも存在
出来る - 縁靈は生前から側にいる
- 故人は顕在するモノに興味が無いため悲しまない
神人靈媒日記より
【お墓は必要でない理由】
- 故人は墓にいない
- 墓に行かなければ故人に会えない訳ではない
- 靈は瞬間移動出来るため何処にでも存在出来る
- 縁靈は生前から側にいる
- 故人は顕在するモノに興味が無いため悲しまない
神人靈媒日記より
墓を拝むことは、墓教(偶像崇拝)とでも言え、墓が必要であると申すのは洗脳
である。
意図的な目的も含めて拝む対象物が必要であるため、『偶像』が存在するのでしょう。
『神』の意味を正確に分かっておらず、
拝む対象を取り違えているのかもしれません。
神事は、神奉りしこと。
神とは、宇宙であり、日月地星すべてであり、自然、森羅万象であり、愛であり、
歓喜であり、光であり、闇であり、生であり、死であり、
心であり、命在るもの顕す意であるぞ。
神奉るとは、人の生き方で申すならば自然破壊せぬ生き方ぞ。
水、氣、土、山、川、海、一切汚染せぬ生き方ぞ。
大日月地神示
開祖亡き後の団体は腐敗する
教団皆々、我良し、派閥、戦、議論好きばかりじゃな。真伝えること出来る御魂おらんのう。
取継ぎ無くて何伝えるのじゃ。教祖亡き後、皆で揉めて親不孝ばかりじゃな。
教祖様方皆々、我が因縁じゃと申して苦しまれておりますぞ。
開祖亡き後の団体は、自ずと腐敗進む運命にあるのぞ。ゆえにいつまでしがみつくでないぞ。
魔の者らにいいように弄られて、魔の棲家となるばかりぞ。よくよく見てみよ。
善の仮面被りた我が我がのお偉いさまばかりとなりておろうがな。
【大日月地神示】
【日月神示】を記述した岡本天明は、
出口なおとその娘婿出口王仁三郎が興した、大本(おおもと/おほもと)に属していました。
天理教、金光教、黒住教、大本教それぞれの教祖に『神示』が降ろされたとされていますが、
同じ靈団からのものだということです。
どの宗教においても、一応に言えることは、教祖亡き後は教えが多少なりとも歪められ、
原点からずれてきているといえるでしょう。
しかし、今後は宗教界も変わるようです。
宗教界が変わるのぞ。元の教えと異なるゆえ、元の真の教えに戻すのぞ。
取って付けたような可笑しな教えは、その内みな無くなりますぞ。
偽りの教えは、消えゆく因果でありますのじゃ。
まとめ:偽りの教えから信仰の自由について考える
- 真の神々はお金や物を要求しない
- 利益の交換条件として何かを要求するのは靈性低き御霊の類
- お釈迦様は今の仏教に、「真の教えがすり替えられた」と嘆いている
- お墓は必要ない
- 開祖先亡き後の団体は腐敗する
ここまでお読みいただき、
ありがとうございました
『大日月地神示』
著者:神人
新泉社